脳科学から考える、これからの教育
- 小泉英明氏
- 株式会社日立製作所名誉フェロー
異業種の方々と教育・保育について語り合う「ちゃちゃトーク」に、脳科学の第一人者である小泉英明氏をお迎えした。脳科学の立場から考えるこれからの教育について、創業者迫田圭子がうかがい、子どもたちにとって大切なことは何かを展望する。
脳科学から教育を考える
迫田:
本日は、お話をうかがえるのを楽しみしていました。2018年4月に中国の北京で行われた、脳の発達をテーマにした幼児教育カンファレンスで講演させていただいたことをきっかけに、脳科学と保育について考えるようになり、ぜひお話をうかがいたいと思っていました。
小泉:
ありがとうございます。私は中国の脳科学研究にかかわっていますが、中国は「脳科学と教育」の研究にとても力を入れていて、目覚ましく発展しています。
迫田:
北京の講演では、保育と脳科学の関係にとても興味をもっていただきました。
小泉:
中国の脳科学の国家プロジェクトは、もともと北京師範大学や北京大学で「脳科学と教育」について研究するところから始まりました。その後、北京師範大学は中国における脳機能イメージングを含めた脳科学研究の中心を担い、リードするまでに発展しています。
迫田:
脳科学と教育の研究から始まったのですね。大きな関心を寄せていただけた理由がわかりました。
小泉:
近年発表された脳科学の新たな根拠から、教育における脳科学の考え方も変わってきています。
迫田:
ぜひ詳しくお話を聞かせてください。
生活の「見える化」で生まれる意欲
迫田:
茶々保育園グループは『オトナな保育園』というコンセプトのもと、子ども一人ひとりを尊重しながら、子どもの生活や表現を大切にして保育をしています。子どもたちが「自分でできた」と思えるような工夫をしていまして、その一つが「しぐさのレシピ」です。
小泉:
手の洗い方が、絵で示されていますね。
迫田:
しぐさのレシピは、生活シーンに合わせて何十種類もあります。「手を洗う」という動作も、「袖をまくる」「蛇口をひねる」「指一本くらいの太さの水を出す」「手を濡らす」などと、一つひとつ分解して説明を添えています。子どもの興味関心に沿って示していますので、子どもがこのレシピを見ると、どの順番で何をしたらよいのかを楽しみながら知ることができます。
小泉:
これはわかりやすいですね。いろいろな保育所で絵によって示すという工夫をしていらっしゃいますが、このレシピは分解して示すという点が大事なところでユニークですね。
迫田:
「見える化」することで、子どもたちの「やってみたい」という気持ちにつながればと思っています。
「意識下の教育」の大切さ
小泉:
子どもの「やってみたい」という気持ちは大切ですね。私もそのような意欲は大切だと思っていて、脳科学の立場からは「意識下の教育」と呼んでいます。
迫田:
意識下(いしきか)、ですか?
小泉:
これまでの教育は、文字の読み書きや運動という「意識」に上がったものに教育をしてきたのですが、これからは意識に上がってこない「意識下」(無意識)の部分の教育が重要になると考えています。
迫田:
少し詳しく教えていただけますか?
小泉:
OECD(経済協力開発機構)の研究プロジェクトで国際諮問委員を務め、2002年から10年間、30カ国のOECD加盟国とその関連諸国とともに、広汎な「脳科学と教育」の研究をしました。その成果は『脳からみた学習 −新しい学習科学の誕生』という書籍にまとめられ、約10カ国に翻訳されています。
迫田:
大きなプロジェクトですね。関心の高さがうかがえます。
小泉:
しかし脳科学の研究は日々進歩していますので、4〜5年もすると新しい研究成果が増えてきます。その一つが「意識と無意識」ということに関係した研究です。教育は今まで、「意識」に上がってきたものを中心に教育してきました。読み書きや記憶力や運動などです。しかし脳の構造や機能を見てみると、不思議な特徴が見えてきます。
迫田:
脳の構造ですか。
小泉:
脳の神経自体が情報を伝えるスピードは非常に遅いのです。ノートパソコンの処理速度とは比べものにならないほど遅くて、神経の伝達速度は最も速いものでも200m/秒くらい、ほとんどは数m/秒というところです。しかし脳は、時に大型の高速コンピューターよりも優れた活動をしています。また、情報の出力に必要なエネルギーはごくわずかなのです。これは、進化の過程でエネルギーを極めて有効に使うシステムができたことと、たくさんの処理を「超分業」という形で分業していることが理由です。
迫田:
初めて知ることばかりです。
小泉:
ちょっと専門的になってしまいますが、「見える化」のお話が出てきたので、脳科学の観点から「見る」ということについてお話しましょう。
ヒトはどのように「見る」のか
小泉:
ヒトが「見る」とき、網膜に像が映って光の信号になり、網膜下から外側膝状体(がいそくしつじょうたい)を中継して、脳の視覚野に信号が送られます。外側膝状体から視覚野に送られた信号は、バラバラの要素に分解されます。
迫田:
バラバラの要素ですか?
小泉:
縦線や横線などの線は線だけ、傾きは傾きだけ、色は色だけ、動きは動きだけ、そのように分解されます。バラバラに分解することで分業し、早く処理ができるのです。その後、バラバラになったものが再構成されるのですが、自分の注意が特に向いているところを中心にして再構成します。このようにして、見ようとしているものを見ています。非常に繊細なところまできちんと認識するとき、この一連の処理には数十mm/秒かかります。
迫田:
要素に分解されて再構築されるのですね。それも線、色、傾き、などに分けられるとは思ってもみませんでした。
小泉:
「見る」ときの処理でも、急な判断でパッと飛びのいたりするためのプロセスで、脳の「感情」に関係するところが働くことがあります。例えば、畑の道を歩いている時に、荒縄があるのを見て蛇だと思って飛びのく、というような経験はありせんか?
迫田:
はい、とてもびっくりしたことがあります。
小泉:
実は、あのように速い処理は、普通の視覚ではできません。原初的な、動物が使っているような非常に速い視覚です。脳の中で処理される時には、まず「蛇かもしれないと」思うことで、パッと避けます。それは「いやだ」という感情と紙一重です。感じて、まず危険を退けて、それから普通の視覚野を使ってよく見ることで、蛇ではないとわかるのです。
迫田:
「わっ、蛇だ!でも、よく見たら違う。な〜んだ、よかった。」なんて思いますね。(笑)
小泉:
脳は情報を処理する時に、いろいろな使い分けをしています。しかし、その使い分けは、まだ解明されていないことばかりです。先ほどの、バラバラの要素に分解するということも、なぜバラバラになったものが再構成されるのか、世界中のどんなに偉い研究者も知りません。分解した要素に、どのようにタグをつけているのか、タグ付けではない方法があるのか、わかっていないのです。
迫田:
研究というものは、本当に大変な積み重ねですね。
小泉:
また一般的には、「みんな同じものを見る」と思われがちです。しかし、処理をする神経回路の構造は、育った環境によって一人ひとり異なるため、同じものを見ても、実は一人ひとりすべて違って見えているのです。
迫田:
同じものを見ても、まったく違うのですね。
小泉:
でも、見ているものについて話してみると「丸いよね」「赤いよね」などと話が合うのは、違うものだけれど共通点もたくさんあるということです。脳科学の研究で、少しずつそれが解明されてきています。
子どもには、本物や自然が大切
迫田:
同じものを見ても、見えているものは違うということに驚きました。
小泉:
この違いは、神経回路の違いによるものです。ヒトは生まれてすぐに一番基本的な神経回路が作られることがわかっていて、遺伝子だけでなく環境が大きく影響することもわかっています。このように、脳における処理には個体差があり、その差には環境が大きく影響することが解明されてくると、乳幼児期の環境がいかに重要かわかります。
迫田:
とても大切ですね。
小泉:
しかも基本的な神経回路が作られるのは、臨界期があるのです。ある時期を過ぎたら、それ以上はどうやっても作れないという時期です。
迫田:
それは、どのくらいの時期なのでしょうか?
小泉:
早いものでは約12か月、1歳くらいです。
迫田:
そんなに早い時期なのですね! 環境が影響するということでしたが、子どもにとってどのような環境がよいのでしょうか。
小泉:
本物を与えるということがとても重要です。本物は自然とも言い換えることができます。見る・聞く・触る・嗅ぐ・味わうといったことすべてに、本物や自然なものを与えることが大切です。自然ではないものとは、人工的なものですね。人工的なものは、私たちの意識の中で感じたものをベースにして作ったものですので、自然のものに比べると情報が整理され削ぎ落とされてしまっているのです。それに対して、自然なものはすべて一つひとつが異なります。自然のものは、私たちの感覚器官を通じて脳の中に入り処理されるのですが、その中には自分では気づかない無意識に処理されるものもあります。反対に、人工的なものも脳に入り意識下で処理されますが、元々の情報量が少ないので回路が発達しないのです。
迫田:
本物や自然なものと、人工のものとでは、そんなにも違うのですね。
小泉:
例えば、花を見るとしましょう。本物の花は、肉眼で見るときと虫眼鏡や顕微鏡で見るときとでは、全て違うものが見えます。しかし造花の場合は、肉眼で見ても虫眼鏡で見ても、拡大されるだけで同じものしか見えません。
迫田:
子どもたちは、花や虫を見るのが本当に大好きで、楽しくてしかたがないという様子なのですが、その理由が少しわかったように思います。
小泉:
本物や自然のものは、見れば見るほど違うものが見えてくるのです。
「三つ子の魂百まで」というのは本当?
小泉:
「聞く」ということについても、同じことが言えます。英語教育の重要性が論じられることが多いですね。
迫田:
いつからどのように学ぶとよいのか、などとよく聞きます。
小泉:
それぞれの母音と子音を聞き取れる一番基本的な神経回路ができるのも、12か月くらいまでです。そのため、日本人はLとRの違いを本当の意味で聞き取れるかというと、おそらく聞き取れません。訓練すれば、ある程度聞き取れるようにはなります。また、LとRを正確に発音することも可能ですが、それは聴覚や舌の感触など、複数の機能を総合して似た音を作るということで、あとからでも可能なのです。
迫田:
あとからでもできることがあると、少しホッとします。
小泉:
英語が上手な方は、外国人が間違えないようにLとRを発音することはできます。しかし、英語のネイティブスピーカーが普通のスピードで話すときに、途中の単語の中にLとRが混ざっていても聞き取れていないことが研究でわかっています。でもLとRを聞き取ることは、英語教育にとってそんなに重要なことではありません。よく言われることですが、RiceとLiceは単語だと前後の文脈などで区別がつくため、ご飯とシラミを聞き分けられるのです。そのため、LとRの聞き取りだけを気にしてもあまり意味がありません。
迫田:
正しく知ると、しっかりと判断できますね。
小泉:
先ほどの臨界期の話も、重要なのは、肝心なところは臨界期を意識しつつも、それですべてが決まるわけではないということです。そこに気をつけないと行き過ぎたり、十分理解されないと大きく間違えてしまったりする可能性があります。
迫田:
「三つ子の魂百まで」ということわざのようです。
小泉:
「三つ子の魂百まで」について調べた研究者がいまして、約80か国に同じようなことわざがあるそうです。私も確認したら40くらい見つけることができました。脳科学の観点から考えても、「三つ子の魂百まで」というのは基本的にはあると考えたらよいわけですが、すべてが三つ子の魂で決まるわけではありません。
科学とは、教育とは、何か
迫田:
お話をうかがっていますと、保育という仕事の意味を改めてしっかり考えなくてはいけないと思います。
小泉:
子どもたちのとても大切な時期に、関わっていらっしゃいますね。
迫田:
私は20歳前後から幼稚園教諭として保育に関わり、夫の転勤のために30歳頃にさまざまな園を見学したことから、素晴らしい保育所に出会い「自分もこのような保育をやりたい」と保育園を作りました。いろいろな理想をもっていましたが、どのように保育に反映し改善するとよいのか悩み、数年はとても苦しみました。子どもたちをよく見て観察することで子どもを理解でき、少しずつ変わっていくことができました。そのようなときに、科学的な根拠やデータは、保育を見直す際にとても重要な意味をもっていました。私たち保育者にとっては、実践を客観的にふり返り、よりよく改善するための大きな手立てとなります。
小泉:
実践はとても大切です。研究成果を論文に書くだけでは、本当の意味で貢献しているとはいえません。研究と実践が、バランスよく相互に影響しあうことの大切さを感じています。
迫田:
よりよい保育とは何かを考え、模索し続けています。
小泉:
とても大切なことですね。本質的に自分が学んでいないと、教育はできないのではないかと思います。教育というのは昔から言われているように、同じ講義をして黄色くなったノートを持って教壇に立つことではないのです。自分が研究して新しいことを毎日見出すことを一生懸命続けているからこそ、伝えられるのだと思います。
迫田:
本当に、学ばなくてはいけません。
小泉:
大事なのは知識ではなくて、やる気のようなもの、先生を見ていて「自分もこうなりたい」というような思いを起こさせるというのが教育の原点だと思います。極端なことを言えば、知識はやる気があれば自分で獲得できることが多いのです。そのためにも先生は、客観的な立場に立って教えるというだけではなく、ご自分たちものめり込むような形で取り組むことが大切だと思います。ただ現実には、研究ばかりもしていられないという難しい問題もあるので、制度などでどのように保障するかを検討することも必要でしょう。
迫田:
小泉先生は、ソニー教育財団の「科学する心」にもかかわっていらっしゃいますね。
小泉:
ソニー教育財団の「科学する心」(幼児教育支援プログラム)の審査員長として10年間かかわっていて、保育所、幼稚園、認定こども園などのみなさまから毎年たくさんのご応募をいただいています。この10年間お伝えし続けているのは、科学は、一般に考えられているような冷たいものではないということです。現実を知り、自然の営みを正確に知る、というのが科学です。それと同時に、科学そのものには、あたたかな面があります。不条理に対峙し、同情するやさしい心です。ごく最近、共感性のなかでも「同情」は、人間のみが進化で獲得したことがわかってきました。そうした「科学する心」、そして相手を大切にする「温かい心」を小さな時から育むことは、人が生きていくための基盤になる大切なことだと捉えています。
迫田:
科学のあたたかさですか。
小泉:
先ほど、「見る」「聞く」ことから脳科学の観点を考えたことも科学です。こうした神経回路の処理を把握することは、実はとても大切です。
迫田:
初めてうかがうことで難しい部分もありましたが、大変気づきの多いお話でした。
小泉:
人間の脳は、中心から外に向けて層状に進化します。一番内側は生きるために必要な呼吸や心拍調整などの領域です。中層には、本能的な意欲とか怒りなどにかかわる領域があります。人間の場合は、さらに一番外側に進化した大脳新皮質という領域があり、知性を制御しています。人間が生きていくうえで特に重要なのが、感情や感性です。動物の場合は「情動」、人間の場合はもっと複雑になるので「感情」や「感性」と言います。これらを司る脳領域は中層で、やってみたいという意欲、好奇心、驚きや悲しみなどに関わります。
迫田:
園の子どもたちの姿からも、意欲や好奇心などはとてもよく伝わってきます。
小泉:
教育でこれまで重視されてきた知識などは一番外側の領域が司っています。例えるなら、蔵書のつまった図書館のようなところです。その図書館を有効に機能させるのは、内側の意欲です。そして、意欲の領域は「無意識」に近いところでもあるため、「意識下を育てる」ことがとても大切だと言うことができます。「意識下の教育」は、知識をベースにしてきたこれまでの学校教育ではあまり重視されてきませんでしたが、生きていくための根幹に関わるとても大切なことなのです。イノベーションを生む鍵も、実は知識ではなく、意欲や情熱だと思います。
- 小泉 英明
1971年東京大学教養学部基礎科学科卒業、同年(株)日立製作所計測器事業部入社。偏光ゼーマン原子吸光法の創出と実用化により、1976年東大理学博士。日立基礎研究所所長、(株)日立製作所役員待遇フェローを経て、現在、同社名誉フェロー。東大先端科学技術研究センター客員教授を経てボードメンバー、(公社)日本工学アカデミー上級副会長・国際委員長。欧米・豪州の研究機関のアドバイザーを兼務。中国工程院外国籍院士・東南大学名誉教授。これまでに(独法)科学技術振興機構領域総括・研究総括、(公社)日本分析化学会第55代会長などを歴任。著書に『アインシュタインの逆オメガ―脳の進化から教育を考える』『脳は出会いで育つ ― 「脳科学と教育」入門』(翻訳されて中国内でも出版)の他多数。